ツチヤ教授の哲学講義

ツチヤ教授の哲学講義―哲学で何がわかるか? (文春文庫)

ツチヤ教授の哲学講義―哲学で何がわかるか? (文春文庫)

哲学はいったい何を明らかにするものかということです.自然に出てくる答えは,哲学は観察の可能な事実を超えた形而上学的な事実を明らかにするんだ,というものです.「形而上学」ということばは,聞きなれないことばですよね.このことばは非常に数奇な運命をたどった上に,哲学者がそれぞれ勝手にいろんな意味で使ったりしたために,ますます意味がはっきりしなくなっています.でもこの講義では,このことばを特定の意味に使います.世界は,手で触ったり,目で見たり,感覚では捉えることのできるものから成り立っていると思えますよね.でも,そういうものや観察できる事実をさらに超えたものが存在すると考えられることがあります.それを「形而上学的なもの」と呼んでいます.
この形而上学的なものを研究するのが形而上学です.ちょうど科学が観察可能な事実を研究するのと同じように,形而上学は観察可能な領域を超えた事実を研究するんです.哲学史上,かなり有力な考え方は,この形而上学の仕事こそ哲学の仕事だという考え方です.だから「哲学」を「形而上学」とほとんど同じ意味で使っている人が,哲学者の中にかなりいます.つまり,哲学は,日常接している自然現象や社会現象や心理現象を超えた,感覚で捉えられるものを超えたところにあるものを明らかにするんだと考えるんですね.
どんなものが観察可能な事実を超えたものかというと,神とか,価値とか,存在とか,意味といったものや,それらに関する事実だと考えられてきました.

哲学の問題を解決するには何を解明すればいいのか.考え方には二つあって,ひとつは,哲学は感覚を超えたところにある形而上学的心理を解明するものだという考え方です.この立場は,哲学を形而上学と考えるんですね.もうひとつの考え方は,哲学は,そういう心理を解明するものではなく,哲学的問題に関してわれわれの理解を深めることだ,そのためには,特にことばの働きをきちんと理解する必要がある,という考え方です.

これまで説明したところでは,形而上学は結局のところ,ことばを言い換えたり,われわれが使っている言葉のルールを変更しようとしているとしか思えない.たとえば,ベルクソンという人は,われわれが「時間」と呼んでいるものとは違うものを,真の時間だと主張しています.でもベルクソンは新しい発見をしたわけではなくて,われわれが使っている「時間」ということばの規則を変更しようという提案をしていることに,煎じ詰めればなるんじゃないかと思うんです.

哲学では,「人間とは何か」「生きるとは何か」「存在とは何か」「時間とは何か」といった問題を立てることがありますけど,人間でも時間でも存在でも,「Xとは何か」という問題で問われているXは,「X」と呼ばれているもののことですよね.だからふつうに考えると,「時間とは何か」という問題は,「われわれが<時間>と呼んでいるものは何であるか」という問題です.でも「われわれが<時間>と呼んでいるもの」を取り出すのは決して簡単なことではありません.