自分の壁を破る人 破れない人

人生でいちばん大事なことは何か,一つあげよと問われたら,私は躊躇なく「できない(やらない)理由を探すな」と言いたい.

カール・ヒルティスは,仕事と趣味の違いについて,一所懸命にやった途端に面白くなるのが仕事で,やっているうちに飽きてくるのが趣味なのだと言っているが,面白いかどうかを物差しにして仕事を選ぶというならば,この指摘は参考になると思う.
あることに一所懸命になって自分を沈潜させてみたり,あるいは身も心もくたくたになるくらいに全力投球してみた途端に,面白さが出てくるもの,それが仕事である.

人でも,あるいは国家でも,品位というのは大切なことだ.それは品位というのが,一つはプライドにかかわっていることだからである
品位がある人,品のある人といのは,周囲の人たちと比べて,卑しいことはやらないという高いプライドを持っている人のことだ.あるいは,辱めを受けないということを,肝に銘じている人のことだろう.そしてこのプライドを持ってこそ,人は自分の壁を破っていけるのである.
幕末から明治初期に来た外国人たちの目に映ったのは,ものすごくプライドの高い武士たちと,やたらペコペコする商人たちだった.当時はすでに落ちぶれた果てていたとはいえ,武士は武士だから,辱められれば相手を殺して自分は腹を切るという覚悟はちゃんとできていた.これはやはり外国人の目にはすざまじいものに映ったと思う.
けっして商売上手というわけではなかったろうが,こうして武士たちが商業に携わっていったおかげで,東洋では日本だけが品位のある国として,あのイギリスからも尊敬を受けたのである.その現れが,明治35年に結ばれた日英同盟である.他の国とは平等の条約など絶対に結ばなかったイギリスが,日本とだけは平等の軍事同盟を結んだのだ.これは,いかに日本の品位が高かったかを物語っていると言える.

なぜ,太平洋の戦争では負けてしまったのか.なぜアメリカが勝ったのか.それはアメリカの制度のほうが優れていたからである.
アメリカの制度は,無能な指揮官はほとんどすげ替え,新しい発明はどんどん採用するという,いたく単純なものだ.これに対して日本はどうだったのかと言うと,無能で何もできない指揮官でも,首を切ったのでは恥をかかすことになるといって,無理して最後まで使ってしまった.
すべての人を一兵卒にする制度よりも,適材適所の制度のほうが優れていたから,太平洋の戦争ではアメリカが勝ったのである.

児玉源太郎にせよ,チャーチルにせよ,自分の地位だとか,自分の利益などといったことにはこだわっていない.私利私欲で動くのではなく,視点を常にグローバルに捉え,国のため,国家のために体を張っているのである.このようなところから,本物のプライドは生まれてくる.プライドというのは,自分を超えたものの価値を認めて,その原則に従って生きているというホコリなのである.それがで備わったとき,自然と気品や品格が人間に出てくるのだ.
最後にもう一つ品格において大切なことは,自立しているということだ.お情けを頂戴して生きているようでは,品格が出ようはずがない.平たく言えば,ちゃんと仕事をしてきちんと税金を納める人でなければならないということだ.

昔の村落においては,人間に対して差は出なかった.農業はすべからく力仕事だったわけだから,有能だ無能だと言っても,普通の人の3倍も一人で田植えができる人などはいはしない.だから有能だとか無能だとかといった大きな差は生まれてこなかったし,そのようなことを考えなくてもよかったのだ.
ところが,こうした建前は戦国時代だとか明治維新,あるいは終戦直後といった激動期に崩れる.そうしたこういう時期に,有能な人物が綺羅星のことくパッパッと出現してくるのだ.
安穏状態を打破するためにも,先ほど述べた通り,アメリカのようなシステム,実力のある人間が伸びてくるシステムに変えていく必要がある.そのためにはまずはリストラを徹底しなくてはならない.
会社を生き返らせる要素としてもう一つ重要なことは,取締役といった経営者たちの地位の問題だ.今のように,単に長く無難に勤めてきたからというだけで,重役や取締役になるというような安易なものにせず,重役や取締役といった会社の経営陣は,ハイリスク・ハイリターンの地位であることを明確にするということだ.
アメリカなどの場合には会社がうまくいかなくなって,その責任を問われて経営者が訴えられ,裁判に負けたりすると,それこそ根こそぎはぎ取られてしまう.

調整型リーダーとファイター型リーダーとを比べてみると,調整型リーダのやり方というのは,表面に出てこない部分が多いので,どう評価していいのかわかりにくいことが多い.だからと言って,最初から最後までまとめ役で出世できるかというと,そううまくはいかない.現場や実践の場でやはりそれ相応の手柄を見せなければ,部下がついてこないのだ.

日本は,組織の団結力を重視することが多いので,成果が目に見えなくても,あるいは能力をいまだ発揮せずにいても,その人間を切り捨てずにプールしておくことがよくある.そして,これらの人間が組織の中でコツコツと地道に働いて実力を蓄えて,ある日それが突然花開くといったことが起こるのである.
液晶などがいい例だ.新素材としての液晶は,もうずいぶん前にアメリカで発見されていた.しかし当面の実用化ができないため,速攻的な成果を求めるアメリカにおいては,気長にいつまでも研究を続ける企業はなかった.
これに対し日本はどうだったのか.発見された後開発されていないのに目を付けて,実用化へ向けて熱心に研究する人を企業はちゃんと抱えていた.
アメリカが日本を恐れているのは,自分たちが能力主義でどんどん先に走っているように見えていても,液晶のようにいつか突然,潜在的な芽が噴き出して,市場を日本に横取りされてしまうような気がしてならないからだ.このような能力を日本の組織は持っているのである.その場その場の能力だけを重視していたのでは日本に負けるかもしれない.アメリカはそう危惧しているのである.団結力の大切さもわかってもらえると思う.

戦場においても,企業においてもそれは変わらない.組織は司令官次第なのだ.各部署の司令官が優秀であれば,組織は確実に強くなる.だから,信賞必罰を徹底させて,飛び級でも何でもさせて,とにかく有能な司令官をどんどん抜擢することが,すでに出来上がっている組織を強くし,強いままに維持する,ほとんど唯一の方法なのである.

残念なことに日本はある頃から,エリートコースなるものを作ってしまい,エリートコースからライオンが自動的に輩出されると勘違いするようになってしまったのだ.戦場における指揮能力や勇猛な戦闘能力ではなく,席次や年次といったコースによって人事を動かすようになってしまった.これが諸悪の根源になっていくのである.

生き生きとした組織とは,いつ潰れるかわからないという危機感のある組織なのである.潰れる恐れのある組織は,無能な人間をいつまでも抱えている余裕などない.ミスを犯し,失敗した人間は容赦なく切り捨て,そのかわりに有能でできる人間を配する.成果を残し,成績をあげた者は必ず出世させて,才能ある人間を決して眠らせておかない.そういう組織にしなければ,すぐさま破産してしまうかもしれないからだ.そしてこれこそが生き残っていく組織である.

アメリカが何だかんだと言われながらも依然として活力があるのは,大統領が変われば省庁の,日本で言えば局長クラス以上に当たる人間が一応全員辞めなければならないことに拠る.高級官僚人事が抜本的に刷新され続けるのである.
能力をフルに生かして仕事をしなければ自らの地位が危うくなる.こういう危機感のある社会だからアメリカは強いのである.

ドン・コルレオーネは,単なる無頼の殺人者や恐喝一辺倒の顔役と決定的に違うところは,相手に対してごり押ししない点である.どんな相手ににも,いわゆる「ノーと言えない条件」,あまり無理のないことしか要求しない.
たとえば,長い間不義理していた男が,困ったことができて,思い余ってコルレオーネのところに相談にくる.厄介ごとを処理してやる見返りとしてコルレオーネが出す条件というのは「これからは時々顔を出すんだぞ」「いつか時が来たらオレのために働いてくれるなな」ぐらいで,ほかにはあまり難しいことは言わない.怖がらせて自分の配下にするというようなことは決してやらないのだ.むしろ寛容で懐深く相手を招き入れるのだが,きちんと条件は守らせるというやり方なのである.

野依にとっては採算など最初から度外視して,それこそ男気で「よっしゃ,やったれ」というような感じだったのではないかと思う.目先の利害ばかりにとらわれていては,人間社会は面白くも何ともなくなる.やはりこのような浪花節的な要素が男にはないと,寂しい人間ばかりになってしまって,大きな仕事も残せはしないと思うのである.
しかし残念なことに,近年とみに,男気を出すといった浪花節的なあり方を否定する傾向が強くなっているようだ.浪花節的な部分をなくすることが合理的なことだと考えるようになっているのだ.
そしてこのような考え方をする人に共通するのは,見捨てたり,切り捨てたり,責任を回避するといった非人間的な行為が,むしろ合理的なのだという屁理屈をつけることである.

榎本武揚は最後まで抵抗したが,それは,幕府の家臣として当然の行為であると考えたからである.明治の男たちはやはり非常に太っ腹で,敵だからといって簡単には憎まない.幕府の家臣なら,幕府のためにとことん戦うのは当たり前だ.しかもよく戦った有能な男だから今度は維新政府のために役立ってもらおう,というわけなのである.
人を見定める価値の置き所が浅はかではないのだ.自分の方だけに役立ったかどうかで人を判断せず,向こうの力,敵方に大いに役立ったのなら,それはそれで大いに評価しようというのである.筋を通して戦ったではないか.敵ながらあっぱれ,ということだ.そして,こういうのはやはり,男の世界だと思うのである.

日清・日露の頃までは,日本人にまだ武人の伝統が脈々と生きていたのである.だからこそ敵を辱めないという美しい行為が自然とできたのである.
この敵を辱めないという行為は,西洋の騎士道精神にも通じるものである.
ところがこれをまったくなくしてしまったのが,第二次大戦でのアメリカである.アメリカの戦いの特徴は,戦いをいつも宗教戦争にしてしまうことだ.つまり,敵を悪魔,悪としてしまうことだ.アメリカには騎士道の伝統がないから,このようなことになってしまう.