日本史

[増補]決定版・日本史 (扶桑社文庫)

[増補]決定版・日本史 (扶桑社文庫)

東京裁判の全権所有者で,日本を裁く側の頭目であったマッカーサーが,帰国後,アメリカ上院の軍事外交合同委員会という最も公的な場所で「したがって彼ら(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は,大部分が安全保障(自衛)の必要に迫られてのことだったのです」と証言.

ギリシャ神話はそれ自体としては大変面白いが,その後のギリシャの王朝や今のギリシャ王国とは何の関係もない.ところが日本の場合は,神話が今現在も続く王朝(天皇家)に直結している特異な国であり,それゆえ神話は特別の意味を持っている.

即位式のときに神武天皇は「六合(国のうち)を兼ねて都を開き,八紘(天の下)をおおいて宇(いえ)となさん.またよからずや」と述べている.ここから「八紘一宇」という言葉がうまれた.これは神武天皇即位式に集まったもろもろの氏族や土着の部族に対し「これからは国じゅう一軒の家のように仲良くしていこう」という願いを述べられたものである.いうなれば長い戦争のあとの平和宣言であり,同時に日本の建国の精神を示したものなのである.
ユダヤ人を迫害するのは神武天皇のお言葉に反すると発言した.その結果,日本はドイツの要請を退け,当時の世界で唯一,ユダヤ人を迫害しないと明確に打ち出した国となった.

戦国大名は権謀術策を用いて権力を手にした者が多かったから,人間が賢くなった.群雄割拠というのは確かに人間のレベルを上げる.ゆえにまともな封建時代がない国は近代国家になれなかったといわれるのである.発達した封建時代があった国は西ヨーロッパと日本だけにあって,インドにも中国にも朝鮮にもなかった.

教育勅語がまず説くのは日本人の伝統的価値観である.つまり,万世一系の皇室の尊さを述べ,それから「親を大事にせよ」「友人や配偶者と仲良くせよ」「身を慎んで学業に励め」「人格を修養せよ」といったことを述べる.そのあとに,「徳川家の幕府や大名という主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった.これからは国家に忠誠を尽くせ」と言っている.このような内容のものだったから,誰もが感覚的に「ごもっとも」と納得できたのである.その点で,教育勅語鎌倉幕府の執権北条泰時の定めた御成敗式目の系統につらなるものだといえるだろう.
教育勅語先の大戦で日本が負けてからもその廃止を求める声は出なかった.アメリカ人から見ても,その内容におかしな点は一つもなかったからである.なぜ教育勅語が廃止されたかといえば,戦後の日本の進歩的文化人の中に,教育勅語を残しておくと軍国主義に戻る恐れがあると占領軍に告げ口をしたものがいたためである.
しかし教育勅語を廃止した影響は極めて大きいと言わざるをえない.それによって日常道徳の拠り所となるものが否定されてしまった.極論すれば,現在の日本の風紀の乱れ,親殺し,子殺しの原因に教育勅語の廃止があるといっても過言ではないのである.

日本にとって韓国の併合は重い負担を背負い込むことになるため,伊藤博文は韓国を併合することに反対していた.ただ,いつまでも韓国の外交がぐらぐらしたままでは日本の国益が損なわれることになる.そこで韓国が近代化して富強になるまでの当分の間,外交権だけ預かればよいのではないか,という方針が出され,韓国を日本の保護国にすることになった.韓国もそれを承諾し,日韓協約が結ばれたのである.これに対して国際社会の反応はどうだったかというと,各国とも朝鮮半島が不安定な状態にあるのは利益に反するという意見で一致しており,イギリスもアメリカもむしろ積極的に日本の韓国併合を勧めていた.
韓国がほかの世界の植民地と徹底的に違うところは,日本がたいへんな金を持ち出して韓国を日本と同じレベルにまで引き上げようと努力している点である.小中学校をつくって義務教育を施し,大学をつくり,専門学校をつくり,それまでほとんど知られておらず,したがって使う人のいなかったハングルまで教えている.
韓国の王家は末代まで王のままで,皇太子は皇太子のままで変わらなかったし,韓国の伝統的な貴族はそのまま日本の華族になった.こうしたことは,ヨーロッパの植民地では決して起こりえなかった.

本来,都市は戦場にするべきではなく,南京のオープンシティを韓国したのは日本の正しい選択だった.しかし蒋介石は南京をオープンシティにしなかった.そのため,日本軍は南京に対して総攻撃をすることになるのである.いわゆる市民の犠牲者は,現在の調査ではかぎりなくゼロに近いのである.南京戦の前の市民の数は二十万人,占領後も二十万人,占領一か月後にもなると,避難していた者も帰ってきて二十五万人になっている.ただの一回も蒋介石南京大虐殺に対して言及していない.もちろんも毛沢東も同じである.また,当時,安全地区には外国政府の外交団がいたが,正式に日本に抗議した外国政府は皆無である.また国際連盟も避難していない.
南京大虐殺に言及されたのは,8年経った東京裁判の法廷であった.これは完全にアメリカの宣伝だと思う.

ポツダム宣言は13項目からなるが,日本は第6項いかに書かれた条件を受諾して降伏したわけである.これは,ポツダム宣言が無条件降伏ではなく,有条件降伏であることを示している.無条件でやることを求められたのは,陸海軍の降伏だけだったのである.ところが,トルーマン米大統領ポツダム宣言の契約い違反したのである.結局,日本は占領される側であり,無条件降伏を押し付けられることになったのである.そしてこのポツダム宣言の延長線上に開かれたのが東京裁判である.

東京裁判は裁判の名を借りた復讐(リンチ)であったといってよい.そもそも裁判に必要な要件が満たされていなかったのである.第一に,裁くための根拠となる法律がなかった.第二に,裁判長と判事はすべて戦勝国側の人間で,裁判の公平性が担保されていなかった.

パール判事は,判決書の中でハル・ノートに触れて「あんなものを突き付けられたら,モナコルクセンブルクのような国でも銃を取って立ち上がるであろう」というアメリカ人歴史家の言葉を引用している.

1950年に朝鮮戦争が勃発する.これで風向きがガラリと変わった.朝鮮戦争ソ連軍と対峙したアメリカは,そしてマッカーサーは,このときはじめて日本の主張が正しかったことに気付いた.すなわち,満州を共産圏に渡さないことが東亜の安定の生命線になる,という主張である.そして日本が行った戦争は侵略戦争ではなく,自衛のための戦争であったと身をもって知るのである.朝鮮戦争中にアメリカに呼び戻されたマッカーサーは,上院の軍事外交合同委員会ではっきりと証言している.「彼らが(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は,大部分が安全保障(自衛)の必要に迫られてのことだったのです」と.
アメリカは日本をすぐに独立させようと方針転換をはかり,朝鮮戦争の翌年に,ばたばたとサンフランシスコ講和条約が成立することになるのである.

サンフランシスコ講和条約を結んだことによって,日本は独立を回復した.それと同時に,東京裁判の判決は実質的に無効となった.日本政府は関係諸国と交渉して,東京裁判の緒判決をすべて無効にしたわけである.それによって,A級も含めて戦犯は国内国外ともになくなり,全員釈放されることになった.すでに日本にはA級戦犯は存在しないのである.

なんにせよ,戦争はイカン.
どうしてもとしても,勝てる戦をせんとイカン.