チャレンジ失敗を非難されるとチャレンジできなくなる

日本人はなぜシュートを打たないのか? (アスキー新書 018)

日本人はなぜシュートを打たないのか? (アスキー新書 018)

日本のサッカーではプレー中の選手たちが責任を転嫁したり責任を回避する傾向が強いように見えるということかな.昔,政治学者の丸山真男という人が,戦時中の日本社会を振り返って「無限責任=無責任」という表現を使ったことがあるんだけれど,日本のサッカーを観ていて,まさにそれが当てはまると思った.自分の責任をずらしていく.ずらされてきた責任を次の人にずらす.そして結局,誰も責任を取らないということになってしまうというわけだ.それは日本の体質かもしれない.日本のサッカー界には,そんな体質を克服していってもらいたいね.

サッカーではシュートすること自体が攻撃の目的である.だから結果がどのようになろうとも,シュートにチャレンジすることは,ある意味,選手全員の義務とも言える.ただしそこにはシュートが不確実なサッカーのなかでももっとも不確かなプレーの一つだという現実もある.リスキーなプレーの頂点に立つのがシュートなのだ.
だからこそ日本人は本能的にそれを避けようとする.それに対して欧米の人々は不確実だからこそチームのためにリスクへチャレンジしていくことには価値があるし,そこでの勇気は讃えられるべきだと考え,チャンスがあれば,積極的にシュートへチャレンジしていく.
そこには勇気を持って義務を果たした結果が失敗に終わっても,拍手こそすれ,決して非難するものではないという社会文化的な背景もある.もちろん誰が見ても利己的だと判断されるような無謀なシュートの場合は,その限りではないけれど.

積極的なプレスだけでなく,チャンスさえあれば誰でもタテのスペースへ抜け出していくといったダイナミックなポジションチェンジも特徴だと思う.
たしかにリスキーだけど,リスクを負わないサッカーなんて存在しないよ.選手たちはリスクにチャレンジしていくからこそ喜びを見出せるし,多くを学べる.もちろんリスクをできるかぎり回避するために,選手全員の意識を高めなければならないよな.特に守備に対する意識をアップさせることは大事だ.
だからこそ選手には,どんな状況でも,チームに対する最高の責任感をもってプレーすることを要求しているんだよ.話し合ったり,ビデオを使ったイメージトレーニングなどを駆使しながらね.それが攻守にわたる積極プレーの背景にあるんだ.責任感が深まれば(カバーし合うことに対する)互いの信頼感も高まっていくだろう.それが結果としてプレーの自由度を引き上げるだろうし,そのことでプレーの喜びも大きくなっていく.そしてそれがまたチームの目的に対する責任感を高めていくんだ.

無謀なだけの無能なシュートも困りますが(笑).