負けない技術

「勝負に勝敗はある.だが,その中で私は,勝つことよりも相手と戦うことに喜びを感じている.いちばん気をつけているのは,戦いの中で自分がケガをせず,相手にもケガをさせないということだ.両者がともにケガをせずに戦いを終えることが,勝負における私のいちばんの狙いどころだ.」 
私もヒクソンと同じような意識で戦ってきた.これが「勝ち」にいく戦い方だと,たちまち相手にケガをさせることになる.「勝ち」だけを求め,欲の世界にまみれてしまうと限度がなくなってしまうのだ.
勝利者の喜びばかり追いかけていると,その裏にある悲しみに気付かなくなる.あるいは気付いていても,その痛みを理解できないほど鈍感になる.

怒りはその人から冷静さを奪い,目の前のことしか見えなくさせてしまう.そんな状況に陥ってしまったら,仕事や人生における流れを捉えることはできない.それでは,勝負ごとにおいても自分から負けにいっているようなものだ.
私は相手から怒りをぶつけられた場合,その怒りのパワーを「おもしろいじゃないか」といったん受けるようにしている.そして受けた後はその力を自分の後ろへ抜く.怒りを一度自分の中に通すことで,相手の怒りの質も見えてくる.そこからいろいろな”気づき”が生まれ,その”気づき”は私に,「どうやって戦うべきか」というヒントを与えてくれる.

人は,なにかことが起こると,相手側にすべての非があると思うから頭にくる.そこで「自分にも悪いところがあるんじゃないか?」と思うだけで,猶予が生まれ,被害者意識からくる怒りはずいぶんと収まったりする.
他者に依存してしまうと「世の中が悪い」「おまえらが悪い」という考え方になる.そうではなく「自分も悪い」という感覚を持てばいい.世の中の悪い大人の中には,自分も入っている.そういう認識を持つことで,自分の中に加害者意識というものが少しずつ入ってくる.

ミスをしたときに「まずい」と思わず,ミスをしてしまった面白さを感じられるようになったとき,初めてそのミスが生きてくる.「おれミスしちゃった.おもしろいなあ.おれ,こういうことやっちゃうんだなぁ」というくらいの余裕をもってやっていると,それは後で良い結果をもたらしてくれるだろう.
そもそも,ひとつのミス自体は大した問題ではない.重要なのはミスによってできた傷口を広げるか広げないかだ.ミスを隠そうとしたり,人のせいにしたりすると,その傷口はどんどん広がっていく.
ミスを犯した後に勝者と敗者の分かれ道がある.あくまでも「ごめん,悪かった.もう一度やらせて」という感覚でミスを受け止めればいいのだ.「同じミスは二度としません」などと言ってしまうと,そこにプレッシャーや緊張が入ってきて,けっしていい結果には結びつかない.

ミスしそうな領域へ自分から飛び込んでいくことが進歩につながる.厳しいことにトライして成功することで初めて「あのひと,スゴイな」と評価されるのだ.
自分の可能性を広げるためには,ミスを怖がらずリスクを取りにいく生き方が必要なのだ.ミスをする領域に踏み込んでいって,そこでミスを減らしていく.それが結果的に自分を成長させてくれる.
「失敗は成功のもの」との言葉もあるが,ミスをするかもしれない領域で犯したミスが成功につながるのであって,安全圏の中でのミスでは成功に結び付かない.

「結果がすべて」と言われるように,世間では勝利こそが絶対の価値を持っている.そしてその勝ち方は,ただ自分だけが一方的に得をする,という形である.
こういった考えのもとで得られた勝利は取り返しのつかない犠牲を生む.勝者の下には無数の犠牲者が存在し,犠牲者と同じ数の妬みや恨みが生まれていく.

本当の決断力を磨いていくには,”決断する感覚”を積み重ねていくしかない.日頃の積み重ねによって,”決断する感覚”がその人の中に根付いていく.
つまり決断力を磨いていくには,「決断」だけに囚われるのではなく,「準備・実行・後始末」というサイクルを意識しながらやっていく必要がある.準備があって,実行があって,その後に後始末.後始末が終わればまた準備を始める.そういうサイクルをいつも持続していないといけない.

「できる人」は何をするにしても自然に,楽しく行動することができる.迅速に動くことができるのは余計なことを考えていないからで,仕事のできる人は,その状況において何をすべきかいちいち考える必要がない.
考えずに「感じる」ことが速さを生む.

ギャンブルやスポーツといった勝負事の世界のみならず,今の社会は「勝てばいい」という考えが蔓延しすぎている.
結果として勝利を収められるなら,手段を選ばない.どんな汚い手を使ってでも勝つ.私の持つ,”勝負の美意識”とはかけ離れた,そんな汚い勝負に世界は汚染されている.
そもそも,勝負というのは相手がいて初めて成立する.”いい勝負”をするには,お互いが尊重しあい,さらに調和しなければならない.