叱られる力

どうもみんな怖れている.見知らぬ人を.友達を.上司を.部下を.家族を.面と向かうことを避け,話をすることに戸惑い,話を聞くことにも逡巡し,仲良くなりすぎることに警戒し,傷つきたくないと身を固め,でも一人になることには心底,恐怖を抱いている.

借りてきた猫.
か・・・感情的にはならない
り・・・理由を話す
て・・・手短に
き・・・キャラクター(人格や性格)に触れない
た・・・他人と比べない
ね・・・根に持たない
こ・・・個別に叱る
この七項目に留意して叱りなさいということらしい.

終身雇用が当たり前だった時代のせいもあるでしょう.一度,会社に入ったら定年を迎えるまで,ほとんど人生の半分以上をその会社で,部下や上司と付き合い続けることになる.そういう覚悟で会社に通う以上,社員同士は一種の家族のようなもの.叱るもけなすも「ゆくゆくはアイツのためなんだ」と兄貴のような責任感を持って後輩に接していたのかもしれません.

「そんなこと言ってるからダメなんだよ.親なんてもんは,嫌われる動物なんだから.嫌われるのを怖れてたらダメなんだよ」
親はそもそも理不尽な動物である.あるとき「いい」と言ったことを,翌日には「悪い」と否定する.それでは理屈が通らないと子どもは混乱するけれど,とりあえず親の言うことに従わないと,ご飯を食べさせてもらえないし,温かい部屋に入れてもらえない.理不尽だと思いつつ,その中で生き延びるすべを身につけていくのが子どもの仕事だと泉谷さんはおっしゃいます.

「俺はね,学校の校則ってのは,あったほうがいいと思ってんの.校則があると生徒はいかにその校則をすり抜けてワルができるかって知恵を働かせるじゃない.ナイフを校内に持ち込んではいけないって言われてるのに『ほら,俺,持ってるぜ.先生には見つからないように持ってきた』というヤツがいたら,みんな,尊敬するんだよ.へぇ,どうやって持込んだんだって.でも最初から校則がなかったら,禁止もされていないナイフを出しても誰も驚きやしないでしょ.そうなったら,誰かを刺すぐらいしなきゃ,英雄にはなれなくなっちゃうだろ? だから,厳しい校則があったほうが,結局,生きる知恵を働かせるようになるんだよ」

人間には,そういうことを怖れるがために,宗教心というものが存在するのではないでしょうか.どの宗教という意味ではありません.しいて言えば私は八百万の神様方面の信仰が好きです.娘時代にミッションスクールに通っていたおかげで,キリスト教の教えの影響も混ざっているようです.でも,人によって何でもいい.「お天道様が見ているよ.ずるいことしちゃダメだよ」「ご先祖様に笑われるよ.そんないい加減な仕事して」.自分には怖れるものがある.そのことが,なんとか自らを抑制してくれると思うのです.

「みんな言ってるよ」も「いかがなものか」も,自分だけの意見とせず,無言の大衆を味方につけようという言い回しに聞こえるところが,私は「いかがなものか」と思うのですよ.

「あなたの人生のことを考えてあげているの」.ほほぉ,ならば私の人生にずっとお付き合いくださるおつもりですかな.そう嫌味の一つも返したくなる.「この仕事はね,必ずや君のためになると思うから」「君が今後,生きていく上で,決して損はないと思う」.そういう説得の仕方をされて引き受けた仕事で,その後の私のためになった例はほとんどありません.

どうやら男という動物は,相手の相談ごとに対して「解決策を示す」ことこそ最大の親切だと思っているきらいがあります.が,女という動物は,必ずしもそれを望んでおりません.女は話を親身になって聞いてもらいさえすれば,それで気持ちがスッキリするのです.